地下の危機一髪|おーい熊五郎!
初秋の肌寒い朝。
街の中心部にある築35年の五階建てマンションの地下受水槽室で、熊五郎(75)は若い設備技師の桐島(28)と共に作業の準備をしていた。
この日は、老朽化したポンプの自動制御盤を最新のものへと交換するため、電気工事の専門業者に入ってもらう日だった。
「熊さん、そろそろ電気屋の佐藤さんが到着する頃です」
桐島がタブレットでスケジュールを確認しながら言うと、ガチャリと地下室への鉄扉が開き、ヘルメットをかぶった電気屋の佐藤が「おはようございます!」と機材を抱えて入ってきた。
「おっ、佐藤さん、待ってたよ。今日は狭い場所ですまねぇが、よろしく頼むな」
熊五郎がいつものしわくちゃの笑顔で声をかけると、佐藤も「こちらこそ、古い制御盤の配線外し、きっちりやりますね」と気合十分に応じ、さっそく作業の打ち合わせを始めた。
地下の薄暗い空間。
電気屋の佐藤が、古い制御盤のカバーに手をかけようとしたその瞬間――。
ふと、辰平の鼻腔に、わずかな異臭がかすめた。
(ん……?)
泥臭い地下室の土の匂いや油の匂いとは違う、ツンと鼻を突くような、人工的な異様な臭い。
熊五郎は動きを止め、眉をひそめた。若い頃から数え切れないほどの現場を踏んできた勘が、全身に警報を鳴らす。
「どうしました、熊さん?」
怪訝そうな顔をする桐島に、熊五郎はすぐにポケットから小さなハンディ型の「複合ガス探知機」を取り出した。新しく導入されたそのデジタル機器を、熊五郎は少しもたつかせながらも、すかさず床面近くの配管の隙間へと差し向けた。
――ピピピピピピピッ!
静かな地下室に、けたたましい電子音が鳴り響いた。
探知機の液晶画面が真っ赤に点滅し、危険な数値が一気に跳ね上がる。
「なっ……! これ、ガス漏れだ……!」
佐藤が青ざめた顔で叫んだ。測定数値は、引火・爆発の危険域に達しようとしていた。
「おい、すぐ火気厳禁だ! 電源も絶対に触るな!」
熊五郎の表情が、一瞬で険しいプロの顔に変わった。おっちょこちょいな普段の面影は微塵もなく、そこには街の命を預かる「水のドクター」の鋭い眼光があった。
もしこのまま気づかずに古い制御盤の配線を外し、火花でも散っていれば――。
五階建てマンションの地下室という逃げ場のない空間で、大爆発が起き、住民たちの命が一瞬にして奪われていたかもしれない。想像するだけで背筋が凍るような危機だった。
「すぐだ! 外に出てガス会社に通報しろ!」
熊五郎の指示に、桐島は震える手でスマートフォンを取り出し、119番ではなく都市ガスの緊急通報ダイヤルへ迷わず発信した。
「こちら、TANAAKKマンションの地下です! 複合ガス探知機でガス漏れを確認しました! すぐに手配をお願いします!」
全員が慌てず、しかし迅速に地下室から地上へと避難し、マンションの住民たちも安全な場所へと誘導された。
それから間もなく、緊急出動したガス会社の専門車両がサイレンを鳴らして到着し、迅速な測定と元栓の遮断が行われた。原因は、地下のコンクリートのわずかな亀裂と、老朽化したガス管の微小な腐食によるものだった。
最悪の事態を免れ、現場に安堵の空気が戻った頃。
地上でヘルメットを脱いだ熊五郎は、いつもの調子に戻って自分の道具箱につまずき、「いてて、危ねぇ危ねぇ……年寄りには心臓に悪いぜ」と頭をかいて苦笑いした。
それを見た桐島や電気屋の佐藤は、緊張の糸が切れたようにへたり込み、それから心からの笑い声を上げた。
「熊さん……すげぇよ。まさか、あの臭いに気づくなんて」
佐藤が冷や汗を拭いながら言えば、桐島も深くうなずき、熊五郎の肩を支えた。
「最新のガス探知機を持っていたのも、熊さんが日頃から『何が起きるかわからないから備えておけ』って教えてくれてたからだ……。本当にお手柄だよ、熊さん!」
集まってきた住民たちからも、「本当にありがとう! 助かったよ!」と次々に感謝の声がかけられた。
熊五郎は照れくさそうに頬をかき、優しく微笑んだ。
「いやぁ、俺一人の力じゃねぇよ。みんながこうして揃って、すぐに動いてくれたからだ。……それに、水だけじゃなく、この街の安全を診るのも俺たちの仕事の続きだからな」
新しい道具と、確かな勘、そして世代を超えたチームワーク。
水も、空気も、街の命も。すべてを守り抜く「水のドクター」たちの誇らしい背中に、秋の青空が眩しく降り注いでいた。

